銀座の寿司屋の物語 その 1

2018年8月4日

どもども、ぶうすけです。

本記事は僕が高校中退後に理由(わけ)あって「寿司職人」を目指した時のお話です。
高校を中退した時の記事は「高校中退の原因は、やりたいことが見つからなかったから」に書いてあります。

若い時って人生について考えだすと迷ったり悩んだりしてばっかりですよね。
先が長いからですかね。
誰もあなたにとって何をすることが正解とはわからないから、いいアドバイスをもらえる事もなかなかないんじゃないでしょうか。

僕も 10 代の頃は迷いに迷いました。
でも、僕も僕なりにとりあえずやってみました。
動けば動いた結果が出ます。

僕の結果は大したものではないです。
だけどこの記事を読んでくれたあなたにとって少しは役に立てるかもと思って書いてみました。

人生初の職探しは「ガテン」という求人誌

僕は高校を中退する時に、「手に職をつける」ことを父親と約束しました。
ちょうどその頃「ガテン」という求人誌が創刊されたばかりでした。
僕は「ガテン」を買ってきて仕事を探しました。

高校を中退した僕がすぐに就職先を見つけるとなると、採用してくれる業種は多くはありませんでした。
自動車の整備かとび職の職人または料理人ぐらいでした。

父親に相談すると手を汚さない料理人がいいだろうとすすめられました。
いつか息子に握ってもらう寿司が食べたいから「寿司職人」はどうだと言われました。
僕は高校を辞めたくてたまらなかったのですぐに決めました。
料理をすることが嫌いではありませんでしたし。

東京都の赤坂見附駅から少し歩いたホテルニューオータニの 4 階にその寿司屋はありました。
「寿司割烹あられ」のオーナーはどっしりと落ち着いた雰囲気の人でした。
面接でお給料の額を伝えられてその場で採用が決まりました。

中央区の勝どきに寮があるのでそこから通うことになりました。
僕は 16 歳で先輩達との共同生活を始めることになりました。

寮での初めての共同生活

会社の寮は 2DK の古いマンションでした。
勝どきの一番西側にあり、ベランダからは海と連なる倉庫が見えました。
僕は勝どき寮の 4 人目の入寮者となりました。

僕と同室で寝起きするのは東北地方出身で僕より 5 つ年上の先輩でした。
先輩は元シブがき隊のモックンにそっくりの美男子でした。
「本木雅弘さんに似てますね」と僕が言うと「言われ慣れてるさぁ」と少しなまって返されました。

モックン先輩の他には会社で経理を担当している渋川さんと系列の銀座店で修行している香川さんがもう一つの部屋で生活していました。
渋川さんはオールバックで無口な 40 代のおじさまでした。
香川さんはそれとは対照的に関西弁でよく喋る 20 代後半の青年でした。

キッチンとお風呂とトイレは全員で共同です。
お風呂は一人が入った後に浴槽からあふれるまで水を足します。
そして沸かしなおして次の人が入るというスタイルでした。
いちいち洗いなおさないので賢い入浴方法だなと感心しました。

モックン先輩、どこでも跳ねる

勤務時間はランチから夕食後までの早番と夕食前から閉店までの遅番がありました。
自宅から通勤している同僚は最終電車がなくなってしまうため早番勤務でした。
モックン先輩と僕は寮なので遅番勤務が多く、寮からの通勤も一緒でした。

モックン先輩は毎日、寮で「倒立」「腕立て」「Ⅴ字バランス」といった運動を欠かさない人でした。
池谷幸雄さんと同世代の元体操選手は自分に厳しく生きていました。
今風に言えば、「ストイックにルーティンをこなす人」でしょうか。

そして、体操選手は見せたがりなのかもしれません。
通勤時にやたらとあちこちでバク転やバク宙をやる人でした。
一緒に歩いていて周囲に人が少なくなったなと思うとすぐに側転です。
勝どき橋を渡っている時も、銀座の歩道を歩いている時もです。

足元は必ずとがった黒い皮のブーツ。
ジーンズも毎日、ブルーの同じ型。
トップスは白の T シャツで、冬の間はその上に B3 のフライトジャケット。
髪は短めのリーゼント風。

俺といったらコレだぜという形が出来上がっていました。

「ぶうちゃん、今すれ違ったの鶴瓶じゃない?」とモックン先輩が芸能人を見つけて興奮した帰り道。
うれしくてたまらなかったのでしょうか。
銀座四丁目の交差点を渡りながら、モックン先輩は飛び跳ねました。

タタタタッと走り出して、ロンダート、バク転、バク宙。
いつも見る、きれいで高さのある回転でした。

「一生このシーンを思い出すだろうな」と思うくらいに僕はその時、見とれちゃいました。

24 時を過ぎた遅い時間なのに、周囲にはまばらに人がいて、そのうちの幾人かが振り返りました。

 

モックン先輩との話は次回に続きます。

ではでは。