20 代で調子に乗って転職したら【転々となった話 1 】

2018年7月31日

どもども、ぶうすけです。

等価交換終了から少しにぎわった近所のホールのハナハナも、最近では通常設定に戻りました。

僕も「もう無理です。打てません。ハナが全然光りません。」と通常モードに戻りました。
しばらく行けません。

そこで、ほぼほったらかしのブログの更新を頑張ります。

本記事は転職の話です。
僕にはもう履歴書の欄に収まらない位の転職歴があります。

こんな僕の失敗の歴史がきっとあなたの役に立ってほしいという願いをこめて書いてみます。

転職の前に大事な新卒入社を振り返る


2000 年 3 月に、僕はアメフト部問題で最近話題になった大学の東海地方にある学部を卒業しました。

高校中退から寿司職人の見習いこぞうを体験して、大検、代々木ゼミナールを経てからの大学入学でしたので、大学入学時には 2 浪生と一緒でした。

さらに優秀な僕は大学 1 年生時の取得単位が 7 単位という適当さで 2 年生から 3 年生に上げてもらえませんでした。

世間ではよく、4 年生になってから、1 年 ~ 4 年をあえて留年する人がいますが、2 年生を 2 回やらせる中途半端ぶりな留年制度ってどうなんだろうって当時思いました。
この学校の体質なんでしょうか。

さげすまれるってこんな感じ?

その 2 年生を 2 回やってる時に同級生から本当に「さげすまれる」ような体験をしました。

僕が年上だからと気を使って普段から敬語をつかってくる同級生の男子がいたんですが、 2 年生 2 回目になったとたんにタメ口になりました。

人より何学年も遅れて入学している僕にはとっくにプライドなんてありませんでした。
学年や年齢がどうかなんて気にもしていなかったのですが、この時には少し、同級生たちと会いずらいなあと感じました。
同級生がいなくなって 4 年生を何度かやる人より、同級生が上の学年に居る状態での留年って結構こたえました。まあ、自分が悪いんですけどね(笑)。

あと、そんなふうに途中で留年してしまった学生に対しての奨学金申請がほとんど受け付けてもらえなかったことにも悪い印象を持っています。
今ではこの辺は受け付けてもらえる方向へ変わってきているとしたら、嬉しいですが。

まあ、そんな僕でもなんとか 3 年生、4 年生となることが出来まして、ゼミなるものにも入れてもらえました。
単位取得で最後まで苦しんだ、外国人講師の英語の単位もサークルの後輩の親身な通訳のおかげで無事に取得することできました。
カヲル君、本当に当時はありがとうございました。

大学のあった静岡県にちなんで卒論のテーマは「お茶」にしました。

あきらめる




そして就職ですが、もう 25 歳になっていた僕の希望先は新聞社でした。
それも第一志望が「産経新聞社」。
新聞の中では比較的に日本という国の歴史を肯定している論調の新聞社です。
後ろ向きではなくて前向きというイメージに僕は共感していました。

この新聞をもっと広めたいというのが僕の志望理由でした。
その為3、4年生の時には小論文の書き方講座だけは受講していました。

記事を書く記者を目指すには思考が浅はかだなと自覚していた僕は、せめて産経新聞が今より売れるようにと営業職へ応募しました。

「朝日新聞とセットで売りましょう。そうしたら、もっと読まれます。」と面接時に伝えて 2 次面接へ。
しかし目立ちたくて記入した履歴書の既往症欄の「気胸」が逆に面接官の質問の中心になってしまいました。
激務だが体力的に自信はあるかという質問の返答に詰まってしまったことを覚えています。

結果、次の選考には呼ばれませんでした。

ここでもう 1 年後に、再度チャレンジする人もいるようです。
しかし、僕はそれほど強い信念を持っていませんでした。

これ以上、両親から援助を受けるわけにはいかないという当たり前の気持ちがありました。
とりあえず、働いて給料をもらえる仕事を探そう。

新聞社をあきらめて就職をしよう。

今思うと、ここでも僕はあきらめていますね。ここでも自分が本当にやりたいことを見つけられなかったんですね。

就職先決定

僕は大学時代に大手メーカーの工場で夜間試験のアルバイトをやっていました。
その時にバイト仲間全員の日程を僕が組んでいました。
全員から都合を聞き、翌月の日程を 2 人ずつ記入しました。
各自の日程が合わない時には、代わりに誰かを配置するといった調整もしていました。
そこで人材派遣業という業種の仕組みについて多少の理解がありました。

今ほど製造業が外国に出て行っていない時代でした。
工場での正社員待遇を維持する費用を削減する提案は製造業各社のニーズに合っている気配を感じました。
少品種大量生産から多品種少量生産へ時代のニーズとともに生産ラインの切替や立上げ、撤退にスピードが求められていました。

この業種は今、必要とされている。
そしてその提案は受け入れられていくはずだと感じました。
しかし、その当時派遣業は外資系がまだ目立ってはいませんでした。

そこで、工場構内請負業というジャンルでその当時では大手であった会社が僕の就職先となりました。

「派遣する側の派遣業『転々となった話 ②』」へ続きます。

ではでは。