派遣する側の派遣業【転々となった話 2 】
どもども、ぶうすけです。
本記事までの経緯は 「20 代で調子に乗って転職したら、転々となった話 ①」に書いてあります。
本記事ではどうして入社後たった 1 年間で転々となっていくことになったのかを解明してみます。
「商品は人」と怖いことを教わる
入社後の社員研修は取引先である自動車製造工場の内部にある研修所で行われました。
研修でびっくりしたことは「商品は人」と教わったことでした。
わたしたちが扱う商品は従業員さまと呼ぶ「人」であるとはっきりと言われました。
弊社の従業員さまを売りこみ、従業員さまの生活全般をお世話することが社員の仕事であると習いました。
仕事は主に下記の 5 つでした。
1. 需要がある現場へ従業員さまに来ていただく。
2. 従業員さまの仕事現場以外でのお困りごとを解決する。
3. 需要がなくなれば従業員さまに撤退していただく。
4. 撤退する従業員さまは別の現場があれば転勤していただく。
5. 転勤できない場合にはやめていただく。
商品が「人」でなければ、需要と供給がマッチするいい仕事と思うんですが。
大人のケンカの怖さにビビる
社員研修で喫煙を再開してしまった経緯については「ぱちんこホールの禁煙化に賛成です」に書いてあります。
研修先では毎日従業員さまを受け入れていました。
北海道や沖縄といった地域から新しい従業員さまがどんどん来ていました。
ほとんどの従業員さまが僕よりだいぶ年上でした。
僕と同期らで従業員さまの入寮のお手伝いをしました。
1,000人を超える従業員さまを自動車会社に派遣している規模に圧倒されました。
古い団地ごとを従業員寮として借り切り、通勤用バスを何十台も走らせていました。
しかし、団地内で起きるもめごとの仲裁をすることも社員の仕事のようでした。
怒鳴りあう従業員さまや殴る蹴るといったケンカを制止する社員の姿を何度も見かけました。
僕も同期も完全にビビッていました。
配属先へ送り込まれる
研修後、配属命令が出されて 10 名ほどの同期は各地へ散っていきました。
僕と同室ですごしたチェーンスモーカーの彼は岩手へ。
スキー好きだった彼は長野へ。
九州の彼は地元九州へ。
そんなふうに全国各地へ同期の仲間が配属されていきました。
僕は北関東の営業所へ配属されました。
僕も営業所近くの会社が借りたアパートへ入寮しました。
偉大な(?)上司たちと出会う
配属初日は所長が迎えてくれました。
元カーディーラーに勤めていた所長はドリフターズのいかりや長介さんにそっくりでした。
長介所長は低い声で挨拶を済ませると僕を車に乗せてあちこちを案内してくれました。
「営業車のラジオはつけるな。その時間、頭を使って考えろ」と言われました。
無駄なことは言わない。
それでいて必要なときはズバッと言う人でした。
翌日から上司や先輩たちと同行が始まりました。
所長になれそうでなかなかなれない副所長の高木さん。
転職歴が多すぎて覚えていないという主任の仲本さん。
元日焼けサロン店長でピンクのワイシャツが似合う志村さん。
写真スタジオの店長だったヒゲが似合いそうな加藤さん。
事務の坂本さんと新人事務の荒井さんは笑顔が素敵でした。
各自が個性的で面白い人ばかりでした。
ただ、今考えると上司や先輩である方たちが全員転職者だったんですね。
上司と先輩それぞれの担当現場で業務を習い、各自から仕事のコツを少し教わるとすぐに「ひとり立ち」となりました。
担当する現場をいくつか上司と先輩から割り振られました。
ただ、初年度ということで人数も少なく問題も起きにくい現場ばかりでした。
よって営業所にほとんど丸一日いられるのが僕でした。
長介所長は僕に徹底的に新規営業をさせました。
僕は事務所では求人広告の掲載企業へアポイントの電話をかけ続けました。
アポイントが取れた企業へ訪問する際にはその近隣工業団地全てへ飛び込み営業をしました。
長介所長、エリア長になる
その結果、僕はその年の上半期営業成績全国ベスト 10 のメンバーに入ることができました。
営業ができる暇があったのが僕だけでした。
しかし僕は自分の力で出した結果だと調子に乗ってしまいました。
長介所長は一番下の僕に結果を出させて全員の士気を高める作戦だったんだと思います。
作戦は成功しました。
営業所員は新規顧客をどんどん増やし、既存の現場でも多くの増員枠をいただきました。
過去最大の人数の従業員さまを抱えることになった長介所長はとうとうエリア長へと昇進しました。
僕はできる奴なのかと勘違いをし始める
年末の飲み会の席でのことでした。
尊敬する長介エリア長に言われました。
「お前はもうどこへ出しても大丈夫だ。だけど面白いから俺のところに置いておく」
来期の人事異動の話の中で出てきた一言です。
それを過大に受け取ったことが僕の転々人生の始まりでした。
「そうか、僕は他のことをやってもうまくやっていけるんだ」とそれからは常に頭の中に浮かんでくるようになりました。
また、多数の従業員さまの生活面の問題に関わり、人疲れしていたことも転職を考えた原因の一つでした。
たくさんのメーカーを助ける仕事は終わりにして、一つのメーカーで働きたい。
そう決めた僕は、翌年の春には退社を申し出ました。
長介エリア長は「わかった」とだけ言いました。
転々と「17 年振りに思い出した「地獄の特訓」【転々となった話 3 】」へ続きます。
ではでは。
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