17 年振りに思い出した「地獄の特訓」【転々となった話 3 】
どもども、ぶうすけです。
言い訳しますと、最近本業の仕事がずっと忙しいです。
うれしいことに副業の方も忙しくなってきています。
そして暑さがひどいですね。
ミドルエイジの僕は熱すぎると思うように動けません。
あなたの周りにも熱中症の方はいませんか。
僕は過去に熱中症になったことがあります。
その時は突然に気持ちが悪くなってしばらくは動けませんでした。
あなたもご自身や周囲の方にぜひ気をつけてあげてください。
埼玉県熊谷市や群馬県館林市は僕が普段仕事でよく行く地域です。
41度を記録したとラジオで聞いて、日本でもとうとうこの温度かと、地球の未来を心配しちゃいました。
というわけで、ブログ更新がまた疎(おろそ)かになってしまいました。
本記事は【転々となった話】の 3 回目として、管理者養成学校の元祖「地獄の特訓」管理者養成基礎コースへ参加させていただいたことを思い返す内容となっています。
本記事よりも前の転職の経緯は「20 代で調子に乗って転職したら【転々となった話 1 】」と「派遣する側の派遣業【転々となった話 2 】」に書いてあります。
記事内容は大変に古い年代のものですので、直近で「地獄の特訓」に参加される予定の方は参考程度にとどめておいてください。
あくまでも僕が訓練に参加した 2,000 年代初頭の回顧録となっております。
メーカーへの転職
転職雑誌 DODA で見つけた食品加工メーカーへの転職は思っていたよりもあっさりと決まりました。
前職を 3 月に退職してから仕事を探し始め、 5 月には採用が決定しました。
ただし、26 歳では管理者候補としては若すぎるということで、僕は次点での合格でした。
本来は 1 人の求人枠だったのですが、僕の将来性を買っていただいて追加枠で採用していただきました。
地獄の特訓へ出発
採用された食品加工メーカーの社長が管理者養成学校のファンということもあって、採用時から「地獄の特訓」管理者養成基礎コースへ参加することが決まっていました。
採用から 2 ヶ月程、会社内の現場での作業を一通り体験すると、訓練に送り込まれました。
今ほどは暑くはありませんでしたが、季節はもうすぐ夏でした。
他人と共同生活する 12 泊 13 日の長期訓練です。
会社が負担する金額も 30 万円を超えると聞いてびっくりしました。
僕と同時に採用されたラーメン好きのケンタさんと一緒に静岡県の富士宮市へ向かいました。
訓練初日にあっと驚く
初日に訓練所に着くと、敷地内でケンタさんと別れて指定された宿舎へ向かいました。
宿舎へ着いても受付がありません。
ただ、同室で過ごす班のメンバーが不安そうに宿舎内で過ごしているだけでした。
その中でも僕が一番若そうでした。
その後すぐに着替えを渡されて、体育館へ。
腹の底から声を出さなければ合格できない「決意表明」をその日の夜までに全員で達成しました。
初日で声が枯れました。
暗記と歌唱訓練に驚く
2日目からはいろいろな訓練が開始されました。
「パンと牛乳」という暗記必須のスピーチは、今ではタイトルのみを覚えているばかりです。
「セールスガラス」の歌も今では歌詞も覚えていませんが、当時は必死で歌いました。
だんだんと「人前で恥ずかしい」という感情がなくなっていったのを覚えています。
40 キロ夜間行進で富士宮市内の暗さにビビる
夜間に、班ごとに分かれて富士宮の市内でスタンプラリーみたいなことをしました。
土地勘のない所で、わざとですが精度が悪い地図を渡されるのでけっこう道を間違えました。
初めての富士宮の夜の暗さが怖くて、体もとても疲れました。
駅頭歌唱訓練で JR 富士宮駅前の人の少なさにさみしくなる
歌唱訓練の試験は JR 富士宮駅前で「セールスガラス」を歌うことでした。
大勢の他人の目を気にせずに歌唱できるかを試験するのですが、駅や駅前に人がまばらでした。
僕の生まれたこりん星でも過疎に悩んでいる地域があります。
僕は歌っている最中も歌い終わった後も、地方の過疎化についてさみしいなぁと感じていました。
終了予定日に合格できずに訓練を延期される
たしか、電話応対の訓練だったと思います。
僕はこの訓練でなかなか合格がもらえませんでした。
即座に機転を利かせた言い回しが出来なかったことが原因だったのでしょうか。
今ではその理由も思い出せません。
訓練を終えるはずの日にも電話応対の訓練で不合格だった僕は、終了予定日で訓練を終えることができませんでした。
同僚のケンタさんはきっちりと訓練を終了されました。
僕は補講で一日追加となりました。
「私の抱負」で叫んだ内容とは
補講一日目で電話応対の訓練に受かりました。
あとは「私の抱負」を相手に伝えきれれば訓練終了です。
自分でも驚いたのですが、僕の口からは訓練へ参加させてくださった社長への感謝の言葉は出てきませんでした。
ただ、父と母への感謝の言葉とこれからずっと大事にしたいという気持ちばかりがあふれるように口から出てきました。
涙を流しながら叫んでいたような記憶があります。
それでも、合格していました。
仲間との別れ
訓練に参加されている方は年代的に先輩ばかりでした。
しかし皆さんは若い僕のことも仲間として接してくれました。
同じ日に訓練を終了できた仲間と卒業の儀式の後に、 JR 富士宮駅までタクシーに乗車しました。
卒業の儀式は、これまでの人生で一番うれしい卒業式でした。
さらりとした涙がどんどん出ました。
タクシーでは同じ班で大好きになった山下さんと一緒でした。
2 人で向き合ってお互いの悪い点を言い合う訓練がありました。
その訓練では僕は大好きな山下さんに悪口を言わなければなりませんでした。
とても優しく接してくださった同室で 30 代後半の山下さん。
僕は山下さんに「優しすぎるのがダメですね。管理者としてはもっと厳しく接しないと」と生意気なことを言いました。
そのことが僕はずっと気がかりでした。
タクシーの中で別れ際に山下さんは笑って言ってくれました。
「手紙を書くよ。また会えたらいいね」
その後、数年間は同じ班にいた方達と手紙のやりとりをさせていただきました。
ただ、僕が次々と転々とするあまり、今では疎遠になってしまいましたが。
「大変申し訳ございませんが、退社させていただきます」
補講を終えてから会社に戻ると、社長の機嫌が少し悪そうに感じられました。
管理者養成学校から伝えられた僕の訓練についての報告に少し怒っていたのかもしれません。
僕は訓練終了後、たった 1 年程で退職を申し出ました。
訓練で自分を見つめなおした時にわかったことがありました。
僕は、僕という奴は…
好きなことは無理をしないでも続けられる。
好きでないことは無理をしないと続けられない。
製造現場の管理職として自分には厳しさが足りない。
自分と他人に厳しくなんて、無理をしないとできない。
無理をすると生きていてつまらない。
つまらなくては生きている意味がない。
うん。辞めよう。仕事を変えよう。
次はメーカーで、営業として働こうと決めました。
また、転々と続きます。
ではでは。
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