外資系メーカーの日本支社で海外出身者と働いてみた【転々となった話 4 】
どもども、ぶうすけです。
あなたの会社には外国の方っておられますか?
もしくはあなたには海外で外国の方と働かれた経験がありますか?
僕はこれまで外国の方々と一緒に働いたことが一回しかありません。
本記事は僕がヨーロッパのプレス機メーカーの日本支社で諸外国の方々と働いた時の話です。
僕の経験が少しでもあなたの役にたてればうれしいです。
あ、ちなみに僕は後輩に通訳をしてもらって大学を卒業した人間です。
その時のことは「 20 代で調子に乗って転職したら【転々となった話 1 】」の記事に書いてあります。
これまでに「英検」も「 TOEIC 」も「 TOEFL 」も一度も受験したことがありません。
これからも「英検 3 級」に受かるかどうか…
タイミングがすべて
会社が営業マンを募集したタイミングと僕が職探しにハローワークへ行ったタイミングが同じだっただけだと思います。
面接まで呼ばれると思っていなかったので、「面接にきてください」と連絡があった時には正直、驚きました。
面接に伺うと若くてきれいな女性と 40 代位の背の高い白人男性がいました。
僕は英語で話しかけられるのかとビクビクしていました。
「ホッホです。奥さんは日本人ですよ。子供も 2 人います」
そう言って親しみのわくにっとした顔で社長にあいさつされた時にはほっとしました。
どうやら秘書兼事務兼通訳であるらしい女性は、僕の経歴に興味を持ってくれたようでした。
「『大検』を受けられてますね。難しかったですか?」
僕は正直に一つの科目自体は難しくなかったですが、科目が多くて大変でしたとだけ答えました。
その日の夕方に連絡が来て、翌週から勤務開始となりました。
タイミングって本当に大事ですね。
ワールドワイドなメンバー
勤務を開始すると営業は僕とホッホ社長が行うことがわかりました。
営業補佐もする女性はニシノさんと言って英語が堪能な 20 代でした。
他にプレス機の構造関係部門にはナゴヤ課長とサワラ君とリーさんがいます。
電気関係部門にはオオサカ課長とジンさんがいました。
ホッホ社長はドイツ人でリーさんは中国人、ジンさんはシンガポール出身でした。
リーさんもジンさんもホッホ社長が直接呼び寄せた社員とのことでした。
リーさんは社長とは日本語で話し、ジンさんとは中国語で会話していました。
ジンさんは社長とは英語で会話していました。
会社の 2 階が社員寮みたいなものになっていて、リーさんはその寮を一人で独占していました。
ジンさんは栃木県に日本人の奥さんがいます。
平日は会社が借り上げた社宅から通勤して、週末は栃木県に戻る生活でした。
ナゴヤ課長とオオサカ課長は共に関西地方に家族がいました。
2 人は日本の他のメーカーから社長がスカウトした方達でした。
2 人とも単身赴任で、仕事が少ない時期に帰省しているようでした。
サワラ君はバイクいじりが好きな 20 代で僕より若いのですが、もうすぐ結婚すると言っていました。
社長はサイドビジネスを展開
僕はしばらくの間、ホッホ社長からプレス機の座学講義を受けつつ、ナゴヤ課長から出張先の現場で機械構造について習いました。
携帯電話部品などのプレス機を使用する製造現場がどんどん日本から中国やインドなどへ移っていることをオオサカ課長に教えてもらいました。
「だから営業して新規顧客を取ってこなくてはいかん。ここ何年かうちのプレス機は新製品が売れていない。オーバーホールの注文ばかりだ」
社長よりも両課長の方が会社の未来に悲観的でした。
あちこちの製造現場へ出張作業に出かけた際に、いろいろな情報が入ってくるからのようでした。
そんな日本人 2 人の心配をまったく無視したように社長はマイペースでした。
僕ら社員の夏休みは 1 週間でしたが、社長は 1 ヶ月以上、ヨーロッパから帰ってきませんでした。
「社長 vs. 両課長」のような気配を感じました。
社長は日本の自宅で別会社を経営していました。
どうやらドイツの美味しいものを輸入して販売しているようでした。
会社でも携帯電話でソーセージの注文を受けていることがよくありました。
そんな社長に僕は家で継ぎ足してつくるヨーグルトと美味しい泡立ちコーヒーをもらいました。
どちらも当時は珍しかったのでとてもうれしかったのを覚えています。
「JIMTOF 日本国際工作機械見本市」で営業開始
1 年おきに開催される「JIMTOF 日本国際工作機械見本市」が東京国際展示場で開かれました。
僕とオオサカ課長とホッホ社長は近くのビジネスホテルに約 1 週間泊まり込みで対応しました。
僕にとっては初の営業です。
緊張しながらもご挨拶をしながらお客様の近況を聞き込みました。
ブースを訪問してくれるほとんどの方がホッホ社長の会社のプレス機のファンでした。
皆さんが興味をもってプレス機の説明を聞いてくれました。
むしろ僕より詳しく知っていました。
しかし、購入に至りそうな話はほとんどありませんでした。
緊張感をもっていたはずの 1 週間が終わる頃には、毎晩ホッホ社長とオオサカ課長とビールを飲んでいただけのような気がしました。
リーさんとジンさんの夕食に驚く
会社に慣れて皆さんと仲良くなってきた頃、リーさんとジンさんが夕食を一緒にと誘ってくれました。
しかし外食ではありません。
リーさんとジンさんは勤務が終わると毎日、リーさんの部屋に行って料理を作って食べるのです。
そこに呼んでいただきました。
しかし、料理しようと出してきたのは日曜にリーさんが近くの川でとってきたという見たこともない魚とザリガニでした。
ザリガニは養殖ものでないと衛生的に良くないと僕は言いましたが、二人とも聞いてはくれませんでした。
「問題ない。問題ない」「問題ないようー」と料理を始めます。
いやあ、やっぱりちょっと無理ですと断って僕は帰宅しました。
営業報告書が英語になる
「JIMTOF 日本国際工作機械見本市」でお会いした方々を訪ねる営業が始まりました。
まずは会社から車で伺える関東地方の方々をホッホ社長と一緒に訪問しました。
「JIMTOF」から日が浅いため、企業の状況もあまり変わっておらずいい話はあまりありませんでした。
しかしホッホ社長は僕のことを責めたりはしませんでした。
「仕方がない状況ですよ。ただ、本社にこの状況を説明するのが仕事です」と言っていました。
ただ、「いい機会ですから、ぶうすけさんが一人で営業に行った場合の報告書は英語にしましょう」と言われました。
「うちの子供も夏休みにドイツの田舎に連れていったら日本語しか話せないのがもどかしそうだったから。きっとぶうすけさんの英語の勉強にいい機会だよ」
いやあ、僕に英語って。
ずっと逃げてるもののうちの一つです。
「人は問題から逃げ続ける限り、その問題に追われてしまう」
「その問題を解決せずに逃げてしまうと、繰り返しまた同じ問題に出会い続ける」
「解決をすれば次にその問題に出会っても、問題とは思わなくなる」出典元:犬飼ターボさんの著書「星の商人」「CHANCE」「DREAM」「TREASURE」のいずれかです。記憶があいまいで申し訳ございません。
出張するも進展する案件なし
営業報告書は英語で提出と決定した後、僕は長期の営業出張へ出かけました。
岡山県、鳥取県、大阪府、滋賀県、富山県、新潟県、宮城県と日本を横断する 2 週間程の日程を組みました。
もちろんプレス機を売るための営業です。
毎日、昼間に 2 件から 3 件のお客様を訪問して、夜に報告書を書き溜めました。
英語の報告書の内容はどれも「近々に購入予定はなさそうです」という内容のものばかりになりました。
円形脱毛がはじまる
この当時、僕は仕事以外では 4 号機のパチスロにはまっていました。
ミリオンゴットやスーパービンゴという時速 5,000 枚を超える出玉性能のある爆裂機に魅了されていました。
平日は仕事が終わるとすぐにパチンコホールへ出かけていました。
休日もホールの開店から閉店まで友人とパチスロを打ちに出かけていました。
そして借金が 200 万円に達してしまうという頃、髪の毛が抜け始めました。
円形脱毛症というものでした。
500 円玉位の大きさの円形部分から完全に髪が抜け落ちます。
そして一箇所目が抜け落ちて生え始めると別の二箇所目がまた抜け始めるという状態でした。
借金をいつ返し終わるんだろうと考えるほど、円形脱毛も続きました。
仕事でうまく結果が出せないプレッシャーも重なったのかもしれません。
1 台数千万円もするプレス機でしたが、僕は 1 台も売れていませんでした。
働く場所や人のつながり方について考える
ホッホ社長の会社はホッホさんのつながりのある方達で成り立っている会社でした。
主要なメンバーは元々の友人だったようにホッホ社長の元へ集まってきたようでした。
面接を受けて採用されたのはニシオさんとサワラ君と僕の若い 3 人だけです。
プレス機を使用する製造現場の海外への移転が増えていました。
僕の働くプレスメーカーもシンガポール支社の方が日本よりも新規の注文や修理の依頼が増えているようでした。
両課長とリーさんにジンさんも海外への出張が増えてきました。
いずれ近いうちに日本法人のメンバーもインドか中国法人へ移動する日もくるかもしれないと僕も考えるようになりました。
「好き」を仕事にする
一年近く経っても僕の英語の報告書はあいかわらずホッホ社長を悩ませていました。
良くわからない僕の英語にホッホ社長は唸っていました。
僕は自分がパチスロ依存症だと自覚し始めた頃でした。
でも依存症を治そうとは思いませんでした。
むしろ、これほどまでに好きなのは「これを仕事にしろという合図なのでは」と僕は考えました。
好きなパチスロを売る仕事に就きたい。
そう思い始めたら、ホッホ社長に退職を申し出ていました。
ホッホ社長は「売れない時は売れないんですよ。気にしてはいけませんよ」と優しい気配りをしてくれました。
「次の会社でも営業をするなら、ここにいても同じことですよ」
ホッホ社長すいません。
僕は無計画で先を見通す能力が著しく欠けています。
今、好きなことに夢中でありたいとしか考えられない人間です。
ナゴヤ課長は営業職をやめて一緒にメンテナンスをやろうと誘ってくださいました。
それでも僕は強引に退職しました。
皆様、本当にこれまでありがとうございました。
僕は身勝手で皆様に迷惑をかけてばかりで申し訳ございません。
ただ、皆様のおかげで好きなことを仕事にしようと決めることができました。
先日、十数年ぶりに僕の LINE 友達にホッホ社長が加わりました。
顔写真を見るとあいかわらず、ハリソン・フォードにそっくりでした。
僕の転職の話は、まだまだ転々と続きます。
ではでは。
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